正確さを求めるほどに訳が止まり、作業が進まなくなる部分が増えました。一言一言を見直すことは大事です。しかし、それに非常に時間がかかってしまうとしたらそれは本当に良いこと、ではありません。
今のような「勉強ができる状態」がずっと続くわけでないことも分かっています。とはいえ、判断に迷うとどこかで次に進む踏ん切りがつかず、それが1つの大きなブレーキになっていると感じます。
そして、こうした踏ん切りがつかなさには、自分自身のある傾向が関係するのではないかと気づきました。
止まる理由の整理(現状)
実際にどのようなブレーキがかかっているのか、書き出してみました。
1.技術的理解が不十分かもしれないという不安
⇒単語・構文レベルでなく「技術的レベルまで本当に分かっているのか」確認できないと踏み切れない
2.正解を出したい気持ちが強すぎる
⇒翻訳に唯一の正解があるわけではないと分かりながらも、ニュアンスの違いが気になりすぎ、これが最適な訳かを自問し続け前に進めない
3.見逃しが怖い
⇒修正後もさらに「これでよかったのか」と再確認したくなる
気づきが出てくると、余計にこれまでどうしていたのか、どれだけ見逃していたのか、と不安になり、一つ一つにこだわりすぎてしまうようになっているようです。その結果、「進めない」「終わらない」「時間がかかる」というループに陥っています。
自覚できたこと:自分の癖と向き合う
違和感を覚えて直す、という行動は自然なものです。けれど、その直しが正しかったかどうかを延々と確認し直してしまい、前に進めなくなる、よりよい訳を追い求めるほどに、「今はここで良しとする」という判断基準を見失う……、終わらない作業に陥っていました。
ちょうど「選択」に関する本を読んでいたのですが、その中で描かれていた「迷いの構造」が自分にぴったり当てはまり、納得せざるを得ませんでした。
改善策:「割り切り」と「目的意識」
今の自分に必要なのは、翻訳を終える・先に進めるための「割り切り」と「目的意識」だと考え、以下の2軸で判断することにしました。
原文の意味を逸脱していないか(=誤訳でないか)
文構造が正しく再現できており、主語・述語・修飾関係に齟齬がないか。意味の把握に誤りがないか。
→ 問題がなければ、いったんその訳で良しとする。
読み手が誤解するおそれがないか
修飾関係が曖昧になっていないか、主語と述語のつながりが不明瞭になっていないか。前回触れた“patterned”のような表現に関して、読者にとって解釈が分かれる余地はないか。
→ 誤解のおそれがなければ、先に進む。
この2点を満たせば、「最善」でなくても「目的に対して十分」として、その時点でOKとする。これが、前回締め切りを決めて作業した際に立てた自分なりの指針です。
それでも予定はオーバーしてしまいましたが、「納得いくまで」と考えてしまう癖からは、一歩抜け出せたように思います。
春休み中、やはり思うように時間を確保するのは難しかったです。ですが、「時間がないから進めない」ではなく、「時間がないからこそ判断する」という視点を持ちたいと思います。
まとめ
どんな判断でも、あとから見返せば「もう少しよくできたのかもしれない」と思います。また、自分で気づけないことは、そもそも修正のしようがない、それもまた事実です。
完璧を目指す気持ちが湧くのは自然かと思いますが、そのときの自分には見えていないものがあるのだという前提にたつことで、ようやく「完全に理解していないと訳せない」と思い込んで立ち止まっていた自分を振り返ることができました。
「質を犠牲にして粗く仕上げる」ことを目標にしているわけではありません。ですが翻訳を「完了」させるためには、どこかで現実的な判断軸が必要だと強く感じました。
今の自分にとって「目的に対して十分か」を自問しながら、歩みを止めずに進めること、が大切だと考えています。
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